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まつこと読書

2016年8月 5日 (金)

まつこ「日経エンタテイメント9月号」を読む

申し訳ないことに連載自体は毎月読んでいません。
だってまとめて本になってからじっくり読みたいもの。
でも今回のテーマについては私も思うところがあって立ち読みしました←堂々と書いているが買えよannoyって話ですね、すません

折しも数か月前くらいに佐藤浩市さんも新聞社のインタビューで光一さんと似たようなことを言っておられてまして、リスクヘッジばかりの業界に物申す!みたいな形で取り上げておりました。浩市さんの記事はこちら
確かに近頃のTV界って世論に過剰反応するあまり保守的過ぎる行動に出ることが多々ありますよね。特にここ10年くらいは視聴者からのクレームを恐れて無難な方向へ走る傾向が強くなってきたように思います。

これはTV界だけじゃない、近頃の会社のマネージメントの人たちっていうのは無難な決断しかくださないなってのは感じます。自分に少しでもリスクがあるものには決して近づかないみたいな。「それボク責任取りたくないよ~」的な。
それはそれでひとつのマネージメントのあり方ですが、それは前にも進めないし進化することを放棄したということでもあるとまつこは思うのです。こういう社長ばかりだったら今の世の中にMacは存在してなかったでしょうね。
それは言い換えればTV界で判断を下す人たちの逃げ腰の姿勢というか、責任取りたくない感が蔓延しているってことなのかなと。
「上が責任を取る。それが上の仕事だ」とは踊る大捜査線のギバちゃん演じる室井さんの言葉ですが、その責任を取るという本来の目的を忘れているマネージメントたちが今の世の中多過ぎる。

・・・ってこういう話をするとね、「お前は背負うものがないからそんなことが言えるんだ」って言われることがあります。
世の中のお父さんたちは家族を食わせていかねばならぬ。家のローンもあるし教育費だって親の介護だってある。
そんな時に自分が責任を取らされるような決断なんか誰もしたくないってことらしいんですよ。
でも昭和の高度成長期の日本においてはその責任を喜んで引き受ける人間たちがいて、その人たちが今の日本という国の成熟した経済を作り上げてきたわけですから、今の働き盛りのお父さんたちにできないわけがない。そもそもそれをしたくない・できないなら出世なんかせんでもよろし。というかその器じゃなかったってことです
そういう器じゃなかった人間たちを大勢マネージメントとして擁している会社に未来はないです。会社は衰退するだろうし業界そのものも危機に瀕することは間違いない。
今のTV界はそういう意味では「責任をとりたがらないマネージメント」だらけの業界になってしまっているのかもしれません。普通の会社ならいざ知らず、TV界というのは日本の文化にそして世論に大きな影響を与える業界なわけですからこのままいくとどうなってしまうのだろうという懸念はぬぐい去れないですよね。
恐らく光一さんも浩市さんも(ややこい)それを危惧しているんだと思うんですよね。
作り手がそんな姿勢でいるのならさぞかし心配でたまらんと思うし。

ちなみに浩市さんがインタビューで言及されていた「喫煙シーン」でひとつ思い出したことが。ONEPIECEというアニメがありますが、このアニメに出てくるサンジくんはいつもタバコを銜えてます。それがトレードマークになってるんですよね。
しかしこれがアメリカでは飴にすり替えられているんです。要は子供たちも見るからそういう子たちに悪影響を及ぼすという判断ですね。
これは賛否両論あると思いますがまつこ的には「アホか」と思いました。
子供たちへの影響を懸念するならオリジナルを変更するんじゃなく、アメリカで放映されているドラゴンボール同様放送時間を深夜にしたらいい。子供が見るもんじゃないよっていうことでね。(ドラゴンボールは暴力的な表現が多いとのことでアメリカでは深夜帯にしか放送されていません)
というかタバコが悪いことだと教えるのは親なんじゃないの?周りの大人たちなんじゃないの??親よりアニメの影響の方が強いの?悪い例がアニメ上であるならそれを悪いことだと子供に分からせてあげるほうが大事なんじゃないの?
タバコが悪いことだと子供が判断できるからアニメでタバコを吸っているキャラクターが出てくると「アウトロー」を感じるんじゃないのかなって思う。

まぁ百歩譲ってアニメの影響力が強いとして、そういうシーンを規制することでアメリカで未成年の喫煙がなくなった?

なくなってねーぞ。みんな偽IDもっててそれでタバコやら酒やら買ってるしね

てかマリファナをふっつーに吸ってたしね。

子供たちに対してのみならず、映画やドラマやアニメで描かれている喫煙シーンが「世の中において喫煙そのものを肯定する。かっこいいものだと促進する」とお考えならばさらにアホかと言いたい。
そんなもん大人なら善悪くらい判断つくでしょうがannoy

判断つかない人たちがそういうものを見て影響されてしまうのであればそれはその人の問題よ。そのソフト自体が悪いんじゃない。そういう人は何を見たって悪い方向へ影響されるのだから。
そもそもそんなこと気にしてたらアニメではなんもできなくなるし、だから実際アメリカの漫画やアニメは面白くない
子供に見せたくないシーンをふくんでるなら原作を曲げるのではなく視聴対象を変えて視聴を制限すればよいこと。そういうシーンがたくさんあるんだよってことを周知すればよいこと。(R15とかR18とかですね)そのあとを判断するのは観る側です。

ただね、もう一度言いたい。
そうやって規制されてきたものを観て楽しんできたアメリカの子供たちは今どうなってるか?犯罪減ってるか???むしろ近頃スクールシューティングみたいな無差別殺戮増えてませんか?
あれこれ意見はありましょうがそのへん現実は現実なのでそこを見ていただくとしてこれ以上語りますまい。

そういうことに全て耳を傾けていたらアニメや漫画というジャンルは衰退の一途を辿ることは間違いないわけです。小説や映画、TVドラマも同様。でもそういう声が正しい場合もあるわけですから、それを踏まえた上でこれは批判に耳を傾けるべき・傾けるべきでないという判断とその社会的責任をTOPがきちんと行なって欲しい。少なくとも批判が来たから・来そうだから「じゃあやめよう!」という姿勢だけはやめて欲しいとまつこは思うのであります。

・・・・Wこうちゃんの話から少し逸れたので軌道修正します。
で、今回光一さんが口にしたことというのは自分の発言に対する影響力を存分に分かった上での発言だとは思うのですがそれにしても事務所が記事にすることをよく許したなぁと。
あの事務所ってやっぱアイドルを抱えているから、そのアイドルが批判的な発言をすることをよしとしない傾向にあるように思うので。
でも逆に言うとそれだけ彼は信頼されてるんだと思います。あの事務所がプライベートでのSNSを禁止しているということを知らなかった光一さんですが、「やりそうもないから言われなかった」のではなく多分信頼されていたから言われなかったんだと思うのです。
極端な話、光一さんがSNSやりたいと言ったら
あの事務所多分OK出すような気がしないでもないヽ(´▽`)/


まぁまずありえない話ですけどもし。もしですよ?光ちゃんがSNS始めたとしたら多分最初は物珍しくてちょこちょこ更新するかもしれません。が、その好奇心が満たされたのち長いこと更新せず→放置→パスワード忘れてログインできず→さらに放置→再申請するの面倒→さらにさらに放置→本人存在忘れる→こうなることが読めていたファンももはや口にせずというループがまつこには見えたんですけどね。だからこれからもやることはなかろうと・・・

ただひとつ、光一さんが記事で言っていたセクハラに対する発言にはちょっと疑問は残る。
「嫁にもいかず」とか「結婚しないで」とか、そういう発言は確かに信頼関係のある人個人に言うにはいいと思うんです。けど彼、コンサートとかで発言してるからねぇ。
彼の発言っていうのはやっぱりそれなりに影響力があるわけで、しかも光一さんひとつお分かりでないかもと思うのはセクハラ的発言(その基準はちょっとおくとして)というのは誰に言ったかじゃない、言った人そのものの品位が疑われるってことなんです。
少なくともその発言を耳にした人はその人の人間性を疑うわけです。つまりはその発言の意図するところを深く理解しようとするとかしないとか以前の話です。

そんなの別に他人にどう思われたって構わへんもん!shineおれは言いたい時に言うねん

・・・って多分光一さんなら言うと思うんですけどね( ̄▽ ̄)

確かに我々ファンはわかってますよ。そんなこと口にできるくらいこの人たち信頼関係があるんだなっていうのがね。
でも世間一般ではそうではない。
光ちゃんはそれを「セクハラスレスレ発言」と理解して言っているようですけど、それでもこれだけコンプライアンスの厳しくなってきた世の中で、例え冗談でも例え信頼している人に対してでもその言葉を公に口にすれば問題になるんです。それはやはり人間性を疑われるということにほかならんのです。自分に言われたわけでなくても聞いている方が不愉快に思うこともあるんです。それは女性にしかわからないラインだとは思いますがそれは致し方ないのです。
社会においては男性が思うより女性の立場はずっとずっと不利なのであって、だからそういう言葉に敏感になるのは致し方なくて、時としてそれを「過剰反応」と捉える趣もあるかもしれません。納得できんでしょうがでも仕方ないのぉ!

だからね光一さん、そういう発言は公ではないとこでしてやってください。本人の希望はさておきまつこは誰にでも愛される光一さんであって欲しいが故に切にそう思うのであります。

ただそーいうことも全部ひっくるめて今回の記事というのは「この人そんなとこにまで来たか!」と思わせるものがありました。
そんなとこ、っていうのは「人が無条件にその人の発言に耳を傾けるようになる」って意味です。そうなるためには浩市さん同様その世界でそれなりに認められている人でなければならないとまつこは思うわけですが、そういう意味では光一さんは私が思うよりずっとずっとこの業界の人たちに一目置かれているんだなと本気で驚きました。
しかも光一さんはこの記事によって生じる批判などもすべて受け止めるつもりであろうことも我々ファンはわかっているからだからこそこの人ってやっぱすげぇなと改めて思うんですよね。
ということはこの雑誌の連載は光一さんが業界の方々に一目置かれる存在になるきっかけになったんではなかろうか。
もうすでにファンだったら知っていた光一さんのもう一つの顔というものを世間様に知らしめるいいきっかけになったんではなかろうか。
だとしたら日経エンタテイメント様様ですな!shine←なら毎月購入しろ?うーん(爆)


やっぱりまつこの目に狂いはなかった。この人は素晴らしいひとだpresentdogpisces
最後に光ちゃんでなく自分を持ち上げる、それがまつこクォリティー

2016年7月13日 (水)

まつこ「利休にたずねよ」を読む

花戦さを読んだ影響でなんだか利休についての小説が読みたくなりまして。
少し古い小説ですが友人がもっているというので借りて読んでみました。
なぜ読みたくなったかというとそれは利休という人ほど作者によって違う人になる人もいないとまつこ個人的に思っていまして、それは豊臣秀吉も同じことが言えるとは思うんですけど。
大体歴史小説って主人公が誰なのかによってそのほかの人々の描き方がかなり異なってくるもんじゃないですか。私の好きな武田信玄も新田次郎の小説と海音寺潮五郎の小説とではまるっきり違う人間のようにも思えてきますしね。
同じ事件でも「解釈」が違うということになるんだと思いますがそこが歴史小説の面白いところ何かもしれません。

で、この小説は利休が切腹を命じられる場面から始まり、過去を遡る形で利休の周囲の人間たちが一人称で利休を語るという、ある意味主人公が異なる短編小説を寄せ集めた作りとなっています。
だけど不思議と読み進めていくと必ずそこには利休についての共通のキーワードが浮かび上がってくる。
そしてなぜ商人である利休が切腹を命じられるようになったのかが理解できるようになるとこういうアンバイで。
ここで描かれている利休はとにかくスーパー芸術家というか、美に対して恐ろしいほどの慧眼を持ち、それに妥協をしないという感じです。
彼にとって美が全てでそれにふさわしくないものは見るに値しないとでもいいましょうか、とにかく今で言えばちょっと三島由紀夫っぽい。
理屈っぽくて粘着質な美へのこだわりというか、一歩間違えると変質者的ってゆーか(爆)正直まつこが一番苦手とするやつです
それを一番感じられるのが妻である宗易の章。
彼女はとにかくいつも利休の顔色を伺っているわけですよ。
家の中の家具の配置とか掃除の仕方とか花の飾り方とか膳の配置とか。そういうものひとつとっても利休の美意識に反してはいないかとビクビクしているんです。しかもね、当の利休は文句を言うでもないんですよ。いやまだ文句言ってくれたほうがよかったりする。
何も言わず眉を潜めて膳の配置を変えたりとかしてるんですよ。

イヤァアアアアアこんな男!。゜゜(´□`。)°゜。

こんだけ生活のなかにも美を求める人だもの、夜の体位とかも文句いったりするのかなとか、思うわね?

「これは美しくないっ!美しいとはこうや!こうやでぇ!fujiおらおらっ
*ここからはまつこの妄想副音声でお楽しみください

いや、ふざけてないっス。まつこいつも100%本気shine
だって美意識の高い人って性趣向にまであるトーサクした美意識があったりするじゃないですか。前述の三島由紀夫もそうですけどね。
まぁやんわりいうてますけど優れた芸術家って早い話「アブノーマル」好きが多い気がしますよまつこは。多分、いやきっとそうや



で、妄想はさておき本編に戻るとこの人の章がこの小説における「利休」という人のパーソナリティを一番表しているんじゃなかろうか、と思います。美に対する天才ではあるけれど神経質な気難しい男っていうね。
この小説ではその美に対する妥協のない性格が秀吉(というか石田三成)との対立を生むような構図になっているわけですが。
小説としてはかなり面白い描き方で、あらゆる人があらゆる視点からこの稀代の芸術家を評しているわけです。ある人は利休を嫌っているしある人は利休を尊敬してやまない、そんな立場も意見も異なる人らが好き勝手に利休を語るわけですから、読んでいるこっちとしてはかなり客観的に利休と彼を囲む人々の因果関係が見えてくるというわけであります。
面白い書き方ではありますけど短編小説集みたいな作りになっているから集中力途切れるんですよ。
読みやすいって人の方が多いとは思いますけどね、でもまつこは夢中で読みたい派なのでなんかイマイチ乗り切れない感はありました。

ちなみに歴史上から言えば、利休切腹の理由ってもっと政治的だったんじゃないかと思っています。彼の立場から察するに当時の政治に相当大きな影響力を持っていたはず。
なぜなら彼は当時のスーパースター的な存在だったわけで、彼とお知り合いであったり彼の茶を飲んだことがあるってことが当時のステータスになっていたわけで。
で、そういう人って政治家も呼び寄せるんですよね。だから当時もスターである利休を自分の手元に置いておくってことが秀吉にとっては天下統一を収めた象徴のようにも思えたんじゃなかろうか。
そして茶室というのが当時の武将たちにおける「社交の場」であり「取引の場」であり「密談の場」であったという、そういう意味からすると利休は今でいう人気高級クラブのママ的な立ち位置なのかとそう思うのです。ええ、どこまでも真面目ですよ。

で、この小説や「花戦さ」を含め、ドラマや映画では秀吉が感情的に利休を切腹に追い込んだという描かれ方をすることが多いですが私は秀吉はそこまでアホじゃなかったと思うんですよね。
しかも石田三成が秀吉の信頼を得ている利休を面白くないと思っていて影から画策したみたいな説も、それも秀吉は側近の言葉に惑わされてオキニの茶頭を殺すほどそこまでアホではないと(ぱーと2)
考えてみれば一挙に権力者の信頼を得ている人間がとにかく危険なのは今の時代も変わりません。そういう人間はあらゆる思惑によって押しつぶされるであろうことは想像に難くないわけであります。しかも恐らくこの方色んな大名たちの外に出したくない秘密を知っていたんだと思いますよ。居並ぶ大名たちの弱点を握ってるわけですからそうなると利休は爆弾そのもの。皆が利休排除に画策するのも納得です。
しかも利休なんざ単なるイチ商人なわけですよ。単なる高級クラブのママなわけですよ(まだ言うか)大名でもなんでもない人間が秀吉の一番近くにいて秀吉の耳元で囁ける距離で話ができる。なのにそれがボンバーマンとくれば

そらぁ排除されますよ。皆が束になってかかってくるでしょう。

そういう意味では今放送中の大河ドラマ「真田丸」で桂三枝さんが演じていた利休が多分一番私の思う利休に近いような気がします。根っからの商人で、交渉ごとに長けていた。これを「フィクサー」と称していた方がおられましたがまさにその通りかと。それを利用してあれこれ儲けようとしたけどゴウツクすぎちゃった☆彡みたいなね。

こういう利休の描き方はなかなか見たことがないので、真田丸はそういう意味でかなり面白いです。豊臣秀吉という人物の描き方も私が思う秀吉像に一番近いですしね。
この辺私は脚本の三谷幸喜さんは相当文献を調べたんだろうなぁと感心しているところなのでありますが。

利休の切腹に関しては確たる理由とそれを裏付ける証拠が不足しているので、専門家の間でも諸説あるようです。真実がよくわからないからこそ利休話は想像の余地が膨らんで、小説や映画やドラマの題材として面白くなるんだと思います。
そんなわけでこの小説で見える利休はあくまで我々が想像する利休像のひとつであるには違いないのですが、それでもなんだか妙に説得力があるので「もしかしたら本当にこの人はこういう人だったのかもなー」と思わせるものがありました。

今度は違う視点からの利休のお話も読んでみたいなーと思いました。
映画も見てみようかな。

2016年5月27日 (金)

まつこ「花戦さ」を読む

Hanaikusa

文庫版が出たんですって。それをきっかけに買ってみました。
普段は映像化されると分かっている話の原作を先に読むことはまずないです。でも今回は特別☆とにかく映画が楽しみで仕方ないしそれにどんな話なんだろー!という興味の方がむくむく膨らんでしまいましてね。
で、今回先に読みました。読んでいるとどーしても脳内で萬斎さんと浩市さんの姿が思い浮かんでしまって仕方ない。
いやもうその2人の姿固定で読んでましたね!そこに克美さんも入れてみる
読みながら「このシーン見たいっ!」「ここは是非とも映像化して欲しいっ」って場面がいくつもあって余計に映画が見たくてたまらなくなった。逆効果
ということでまつこのいつもの腐った感想、よろしければお付き合いください。

このお話は花道と茶道というそれぞれの道を確立した池坊専好と千利休の友情がメインとなったお話であります。
時代は戦国も終を迎えようとしていた頃、時の権力者・秀吉の言いがかりにも近い横暴によって切腹を申し付けられた利休と、彼への弔いを刀ではなく花でもって仇討ちする専好。大雑把ですがこんなお話です。


本を読んでまっ先に感じたのは

これはもはや・・・

戦国時代のボーイズラブ☆

この本も映画も間違いなく腐女子ホイホイとなりますでしょう。
そう書くとふざけてるように聞こえますけどそうじゃないんですよ。え。違うのか。我ながら
ちゃんと理由があるんですよ。
私の個人的見解ですけども、世に言われているボーイズラブってね、あながち間違ってないんじゃないかって思ってるんです。
男同士の友情って有り体に言えば肉体関係のない男女間の恋愛diamondと似ている、というか同じだとまつこは考察致します。またエロかよannoyという感じでアイスミマセン。
男はこれ言うと強く否定しますね。まつこの某友人は「わかってねぇ!」といつもこれを否定します。
「アンタこそわかってないね!ってか気づいてないんだ!認めたくないんだ!ぎゃいぎゃい
「男の友情ってのはそんなもんじゃないんだよ!」「すいませーんビールおかわり」←無視


この水掛け論をかれこれ20年程続けておりますが。成長しない2人。
でも女にはそれ(=男が言う男の友情)がわからない、というか理解できない。
そりゃそうですよ。男の友情とか言われたら女からすると女の友情と比較するじゃないですか。でもどーも女の友情と毛色が違うって気づくわけですよ。なんか違くね?それなんなの?友情じゃないでしょ?だって女子はそんなことしないしそんなこと思わないよ??
頭の中クエスチョンマークと疑惑でいっぱいなところに素直に「ああ、こいつの言ってる友情って=肉体関係のない男女間の恋愛なんだ!」と置き換えてみてください。あら不思議合致するわぁ
というかそう考えた方が理解しやすくなります。同時にイラっともします(爆)
まぁ肉体関係と書くと即物的になってしまいますけど、もう少し広い意味で言えば性欲の伴わない恋愛関係とも言えなくもない感じでしょうか。
それに限りなく近いのがボーイズラブなのかな、と思ってるとこういう訳です。まぁこちらは体の関係ありまくりですけれども、でも決してゲイとかホモという言葉とは非なるものなのです

ちょっと極端な話ですけどそれくらい男同士の深い友情って女には理解しがたいものがある。それは女性同士の友情と似ているようで全く異なるもののようにも思えます。

で、遠回りしましたがこのお話の中でもそんな疑惑を呼びそうな場面がいくつもいくつも出てくるもんで、「あれ?この二人できてんの?イノセントラブ?」って本気で思いました。
例えば本能寺の変が起きたとき、信長の茶頭となって側に仕えていた利休を案じて食事もろくに取れずに気落ちしている専好とか。
例えば利休が大阪から専好の住む京都にやってきて「専好ちゃんに会えるかな?会いたいな」とウキウキしてたりとか。
利休が秀吉とあれこれあって蟄居を命じられ、死を覚悟したとき「専好ちゃんに会いたい。癒されたいよぅ」と思ったりとか。

え。できてるでしょうこれは(=男の深い友情と訳してお読みください)


いや腐ったことばかり書いててすいません。でもこの2人に関してはもはや男同士の友情との一言では片付けられないものがある。よく魂と魂の結びつき、なんて言葉を耳にしますがそれがどういうものか正直これまでの私にはいまいちピンと来ていませんでした。
でもこのお話しの2人を読んでいるとほんの少しだけその言葉の意味がすこぉーし理解できたような気がしてきます。
茶の道と花の道、全く違う道を歩む2人だけれどその道を突き詰めればどんな道でも同じ場所にたどり着く。それをこの2人は知っていて、同じ場所を目指している同士であるとお互い理解しているからこその安堵感、ツーといえばカーの心地よさがこの2人にはある。それが2人の結びつきを強くしているのだと思うのです。それを現代人がBLや~!ととってしまっても誰が責められましょうか。
このお話を読んで感動したのはそこでした。正直読んでいるとかなりキツイ場面が多々あるのですが、読み終えた時に後味の悪さはあまりありません。
でも実際史実にあったことなんでしょうか。
そのへん私はわからんのですが、確かに文献などを見ると利休と専好が多少なりとも交流があったような記述は残っているようです。時代的にもそれは何らおかしくなくて、むしろ交流がなかったことの方が不思議に思えるかもしれません。ただここまでの仲であったかというのは本当なのかな?
でもこのお話を読んでそうあって欲しいな~と強く思いましたけど。
誰か調べてくれないかしら。私は無理です(爆)

ただこの本、歴史の小説にしては薄いんです。
最初手にとった時その薄さに驚き、少々嫌な予感もいたしました。
そもそも歴史小説って分厚いものが多くて、それは時代背景やら習慣やらを読者にわかりやすく説明していく必要があるためで、それを追っていくことで読者はようやくその世界感に無理なくダイブできるもんだと私は考えているのですが。だからどうしてもページ数がかさんでしまうのは避けられないはずなんですけどこの本はその厚みがない。

実際読んでみたらやっぱりそのあたりをバッサリ切られた感は否めない。
でも逆に気持ち良いくらいバッサリ切り捨てているのでむしろ読みやすいと言えば読みやすいです。むしろ歴史小説ではないとの見方もできるかもしれないから歴史が苦手な人でも抵抗なく読めるんじゃないでしょうか。
昨今ではこういう本の方が受け入れやすいのかもしれません。

・・・とここまで終電に揺られて電車の中で必死こいて書いてきました。
隣の酔っ払いがもたれかかってきてうっとおしいので今日はこの辺で。
機会があればぜひ読んでみてください。
って散々腐ったこと書いててむしろ読む気なくしたら申し訳ないデス…